広汎性発達障害のある人とのコミュニケーションの難しさ
社会性の問題、ではない。
語用論の問題、でもない。
相手の話がわからないこと、でも
こちらの話を理解してもらえないこと、でもない。
そういうことは、時間をかけて丁寧に話せば解決することだ。
そこから先に壁がある。それは、
筋が通ってないように思える、ということだ。
例えば、就労場面での話。
「職場でケータイ電話の所持が禁止されているのは納得できない」といわれる。
そういう決まりなんだから仕方ないでしょう?だって、その仕事、対象の人のプライバシーの問題があるでしょ?あなたはサービスを提供してお金をもらう側で、サービスを受ける側ではないでしょ?と話してみる。
「障害があるから、配置が覚えられない。それをケータイのカメラで補うのだそれがわからない職場は、障害者雇用をする資格がない」と返される。
んー。
ここから先は端折る。
要するに、無数にツッコミどころがある。
こんな考え方が社会で通るわけがない、と思う。
そういうことを、配慮ができていない、ケータイの持ち込みは権利だ、と主張されても困る。
こういうとき、どう考えればいいのだろうか。さんざん悩んできた。
そして今、どう考えるか。
まず、なぜこの人はこんなことを言うのだろう?と考える。
自分の経験上、人がこのように不満を言うのは、本当にそのことだけが問題である場合というのは少ない。たいてい、2つ3つの懸案事項があって、それがひとつの悩みとして表に出てきている、というのが多い。
悩みとは、シンプルな課題(懸案事項)が同時に複数生じて、それが絡まってしまい、どこから手をつければいいのかわからなくなっている状態のことだ。何本かの糸が絡まった状態が悩みである。まず、絡まりを解いて、一本ずつ解決していくしかない。
なのでまず、懸案事項を整理する。
特に発達障害のある人の場合、何が懸案事項なのか、自覚することが難しい人がいる。また、自覚してもそれを言葉で表現することが難しい人がいる。そして、話していた悩みとは程遠いところに懸案事項のひとつが隠れていることがある。むしろ、話していた内容なんで本当の課題と関係ない場合すらある。
つまり、聞き出すことは難しいのだ。これを聞き出そうとすると失敗する。
聞き出してみたとしよう。最初は聞いても、よくわからない。それを手を替え品を替え、質問していく。するとだんだん話が見えてくる。見えてくると、今度は、その話に矛盾が見えてくる。そうなるとほとんどの人はその矛盾を指摘したくなる。それはおかしいよね?それは、さっきの話と違うよね?こないだは違うこと言ってたよね?それ、前も私が指摘したことあるよね?などなど。そういう話を繰り返すと、相手は何も言えなくなる。相手が何も言えなくなると、なんというか、悩みを整理してあげたような気持ちになる。
こちらはスッキリするかもしれない。相手の問題を整理し、矛盾を解消してあげたのだ。相手は、矛盾に気づいていなかったようだけれど、そこを指摘したら理解してくれたようだ。説得には少し時間がかかったけれど、世間の感覚からいうと、どう考えてもそれは道理が通らないということを納得してくれたようだ。はー、疲れた。でも、いいことしたなぁ。
とまあこんな感じだ。結局、数日後には同じことが繰り返される。
話を戻す。つまり、聞き出すことは難しいのだ。解決法はひとつ。普段から、長く一緒に時間を過ごし、本当の懸案事項を見つけて、それを解消するしかない。
二者間のコミュニケーション場面では、相対的にコミュニケーションが得意な人が、不得意な人に合わせるしかない。
そして、もうひとつ。
その人が抱える問題を、コミュニケーションのレベルで評価して、コミュニケーションによって解消しようとするのは難しい。
こういうことを考えると、そのコミュニケーションが得意な人は、コミュニケーションの枠を超えて本当の課題を見つけることをしないといけない、ということになる。
ここでまた、壁がある。
どうしても解決できない課題、というのもある。社会というものを考えると、そういう解決困難な問題は山ほどある。
そういうとき、結局、相手にその困難な状況を受け入れてもらうしかないと感じるシーンがある。
もちろん、解決できることは解決する。
社会的資源を活用して。学術的な知見を活用して。工学的技術を活用して。コネクションを活用して。オフィシャルなルートだけじゃなく、アンオフィシャルなルートをも活用して。
それでもなお、解決できないことがある。その人の言う解決すべき課題が、誰がどう考えても「筋が通らない。おかしい。」というのなら、それはちゃんと向き合って解決した方がいい。
ただ、その人の理屈でのみ、課題になっていて、一般的に筋が通らないということがある。これを解決しようとするのは難しい。これが難しい。
そういう場合、福祉や教育の場面では「その人のそのままを受け入れることが大切」というような話を聞くことが多い。
これは無責任だと思う。そのまま受け入れる、って一番難しいように思う。
そのまま受け入れましょう、という人はたいていの場合ステークホルダーではない。
そのまま受け入れるって、責任の取り方と関係してくると思う。
そのまま受け入れる、ということは、なんでも許すということでもないから。
どこまで責任を受け入れるのか。
なので自分の場合はそのまま受け入れるという感覚はしっくりこない。
この感覚を言葉にすることは難しい。でも、誤解を恐れずに言うのなら「でも、しゃーないやん?」ということになる。
しゃーない、という風に言うと、課題は実は解決しない。だからそれはごまかしに過ぎない、と非難されるかもしれない。でも、そうするしかないこともある。
そうやっていいながら、また一緒に時間を過ごしていくしかない。
こういうのを福祉や教育の分野では「寄り添い」というのかもしれない。
個人的には寄り添いという言葉は好きではない。寄り添うってなに?定義は?と思う。
ここで自分がその言葉を使うなら、寄り添いとは「付かず離れず、関係性を切らずに保ち続けていられる状態」のことかなと思う。英語で言うところの、keep in touch というニュアンス。いや、これもまたたいがい曖昧ではあるけど。
もう長年この問題について悩んでいる。いろいろ考えて、自分なりにたどり着いたのがここまで。
まだ先があるように思う。もうしばらく考え続けたい。
(この話の元ネタになった方とは相談して合意のもとでこの記事をアップしています)