こどもが世界を理解するには

 こどもと一緒にいるときによく思うのは,この子はどうやって世界を見ているのかということです.そしていつも,山下清のエピソードを思い出します.山下清というのは,あの裸の大将の山下清画伯のことです.何の本で読んだのか思い出せないのですが,山下清が誰かに初めて会うとき,その人がどういう人なのかということについて,知っている人に対して「軍隊で言ったらどれくらいか?」と尋ねたというエピソードです.ちょっと偉い(?)人の場合は兵長だとか,すごく偉い人だと大佐だとか,細かいことは忘れましたが,人間関係や社会的な立場の違いを理解するのに,軍隊の階級制度に置き換えて理解していたという話です.

 これまで多くの子どもや,知的に障害のある人たちと一緒に過ごしてきて思うのは,人が何かを理解しようとするとき,自分の絶対的なものさしと比較して理解しようとするということです.よくよく考えると,大人もそうやって考えてるはずなんですよね.イタリアのミラノの緯度が北緯45度だと聞いてもピンときませんが,稚内と同じくらいだと知れば,ああ結構北なんだなぁ,っていうか寒くないのかなぁ?などと考えられるようになるわけです.大人の場合は長い人生経験の中で比較する対象をたくさん記憶していて,状況によって適切に使い分けられるので,いろいろな物事を子どもより早く理解できるのではないかと思います.

 このようなことは,知的に障害のある人にとってもとても重要なことだと思うわけです.「鉄腕アトムと晋平君」という本だったと思いますが,言葉の話せないある自閉症の男の子が,ある程度年齢がいってから突然話し出した話が紹介されています.その人は,あいうえおボードが大好きで,文字に対して強いこだわりを持っていました.言葉が話せないのですが,文字だけに興味を示すうちに,あるとき母親の手のひらに文字を書いてコミュニケーションしだしたという話です(私的には,そのレベルの子どもであれば他にもっとやりようがあったんじゃないかと思いますが,ここでは置いておきたいと思います).私が何を言いたいのかというと,話せない子どもにはあいうえおボードを買いましょうという話では一切なくて,人が世界から知識を取り込んで自分のものとするためには,まずそれを理解するときに使う「ものさし」のようなものを身につけておくことが必要なのではないかということです.いや,この自説を支持する学術的な根拠を調べていないので,絶対にそうだとは自信を持って言えないのですが(研究者のくせに),僕の経験上はそうなのではないかと思います.

 では,世界を理解するためのものさしってどうやって身につけるんでしょうか.最初の話で言えば,山下清は兵隊の階級で人間関係を理解するというテクニックをどうやって身につけたんでしょうか.自閉症スペクトラム当事者であり,動物学者でもあるテンプル・グランディンも,ゴリラのコミュニケーションの観察をしていて,はじめてコミュニケーションのやり方を理解したというようなことを言っています.このような例は結構あるんですよね.この考え方の軸,理解のためのものさし,これをどうやって身につけるのか.これはよくわからないんです(研究者のくせにわからないという).前述したように,人によってもずいぶん違います.ただ,山下清も晋平君もグランディンも,その対象に「ドはまり」していた時期があるということです.これはもしかしたら自閉症の特徴の「こだわり」というのとも関係しているのかなあとも思います.こだわりというのは,ときに社会的事情から「問題行動」と呼ばれたりすることもあります.こだわりって,悪いことなんでしょうか.どうしても他人にひどく迷惑を掛けることがあってそれが結果的に本人の不利益になるのであったり,自分を傷つけることがあったりする場合には,その行動は何か別の行動に置き換える必要があると思いますが,こだわりが全て悪というわけではないということは,書いておこうと思います.もちろん,こだわり行動を何でもかんでも放置しましょうと言っているわけではありません.

 重要なのはなぜ同じやり方にこだわるのか考えることだと思います.例えば,皆さんは朝に誰か知り合いと会えば挨拶すると思います.何かしてもらって嬉しいときは,お礼を言うと思います.ところが皆さんが別の地域に行ったときに,朝挨拶すると怒られる,お礼を言うと怒られる,といった状況になるとしましょう.おそらく皆さんはパニックになると思います.なんで?朝会ったら挨拶するのがあたりまえじゃないの?何かしてもらったらお礼を言うのが当たり前じゃないの?と.知的に障害があるか否かにかかわらず,人は誰でも「自分がこれまでうまくやれてきた方法」を基準にします.多くの人は,状況に応じて変わる「うまくやれる方法」をうまく使い分けます.でも,それが難しい人からしたら,唯一の「自分がこれまでうまくやれてきた方法」に依存するのは当然のことではないでしょうか.ところがそれを世間はこだわりという.それ以外のうまくいく方法を学ぶチャンスもなく.

 話が全く収束しませんが,子どもに何かを教えるというとき,大人は「かみ砕いて丁寧に教えたらわかるはずだ」という感覚がありますが,それはちょっと危ない感覚だなと思うわけです.できることなら,子どもの「ものさし」に近づけてやる必要があるように思います.そして,それが難しい子どもがいた場合,子どもが「ものさし」を獲得できるような,何かに打ち込める環境を提供できればなあと思うわけです.その「ものさし」がうまく機能しないとき,周囲がそれを察知して,別の「ものさし」を手に入れるための手伝いをできれば理想だなあと思います.

(このコラムはサポートネットワークアミーカウェブサイト掲載用に書いたものを転載しています.)