「教える」ということに対する大人の思い違い

 4歳の長男が最近数字に興味をもってきています.もってきているというよりは,興味をもつように仕向けてきたというのが本当のところですが.子どもに限らず誰でもそうなのですが,興味が持てないことを学ぶということは苦痛です.大好きなことなら熱中して1日でできるようになることが,なぜそれをやらされているかわからない状況だと何日もかかるわけです.場合によっては数ヶ月,1年以上かかることもあります.なので,子どもに何かを教えるのには興味をもってもらうということがまず大切になると思います.子どもに興味をもってもらうには,親は結構努力しないとダメだなあというのが最近の感想です.いや,流行りの親学ではないですよ.もっと私の個人的な感想の話です.

 まず,子どもがどういうことなら興味をもちそうか,そこを知る必要があります.普段から観察しておくことが重要なんですね.そして,子どもがどのようなことなら取り組めそうかという当たりをつける必要があります.心理学には「レディネス」という言葉があります.レディネスとはざっくりと説明すると「学習のための準備状態」を示す言葉です.準備状態というのは大きく分けて2つです.ひとつは発達段階がその能力を獲得するのに適切かどうかということです.2,3歳くらいの子どもを大人と同じように話せるように徹底的に訓練をしても,それは無理です.もう少し年齢を重ねることを待たなければいけません.もうひとつはあることを学習するために必要な知識や技能が既に身についているかどうか,です.かけ算を教えるとき,数の概念が理解できない子に教えようとしても無理なわけです.かけ算を学ぶ前には数の概念がしっかりと身についている必要があります.このような2つのレディネスについて,大人は考えておく必要があります.子どもが何かを学ぶとき,そのお膳立てに大人はそれなりに苦労する必要があるわけです.

 ここに落とし穴があるんですね.子どもを育てるというのは,既にかなりの苦労なわけです.その中で,なんとなく自分の子の発達や能力というものが何となく気になってしまうんです.で,不必要に焦ってしまうことがあります.特に,外から何かをいわれた場合に,妙なストレスがあるんですよね.それで何かを教えないといけないのかなぁという気になってきてしまいます.そこで「この子は2歳になったのだからそろそろ言葉をしゃべるはずだ」「3歳になったのにまだオムツがとれない」などと焦ってしまうわけです.「平均的な発達段階を勝手に想定して,それに自分の子どもを合わせようとしてしまう」という先回りの罠なんですよね.発達には一定の段階があるとはいえ,子どもによる個人差の方が大きいわけです.一方で「ほっとけばいずれできるようになるだろう」というほったらかしの罠もあります.ほったらかしていても子どもは勝手に学ぶことも多いので,あながち「罠」とは言えないのですが.ともかく大切なことは,子どもの本当のレディネスというものに気を掛けておくということです.

 気に掛けておく,なんて簡単に言えるのは専門家だからではないの?と思われると思います.確かにそうかもしれません.でも,次の2つのポイントを守るだけでずいぶん違ってくると思います.

・生活に密着させること
・大人が見ている世界と子どもが見ている世界は違うということを意識すること

 ひとつめの話に関係する言葉に,Street Mathematics(路上の数学)という言葉があります.キース・デヴリンという数学者がブラジルで経験したことを元に使い始めた言葉です.ブラジルで学校にいけずに路上でものを売っている子どもが,自分の商売に関する計算については,習ってもいないかけ算を使って,大人顔負けの速さで正確に代金やおつりを計算するわけです.自分の生活に関係があり,自分の興味に関係のあることについてはそれなりに習得し,その技能を向上させられるのですね.これはどの子にもいえることです.もちろん,路上で商売をしている子どもたちがそれをやりたくてやっているといういう意味ではありません.ポイントは「自分のしたいことをするために,その過程で何かを学ぶ」ということだと思います.つまり,なにか計算方法などを学習すること自体が目的になってしまってはいけないということです.例えば,時間の概念を身につけるのに,時計をひたすら見せたり,何度も「3分待ちなさい」と言ったりするのは,子どもからしたら意味がわからないわけです.何かあともう少し我慢したら楽しいことが待っているという状況において,あとどれだけか知りたいというモチベーションができた状態で砂時計を置いて「この砂がなくなったら○○できるよ」という状況をセッティングしないといけません.

 続いてふたつめ.下の写真は,4歳になりたての長男が書いたものです.最近突然数字を教えて欲しいというようになりました.どうも,自分がマンションの何階に住んでいるのかに興味があるようです.階段をのぼるときに各階に書かれてある数字を一緒に見ては「これは?」と尋ねてきます.毎日何度も「よんだよ」「さんだよ」と伝えても,認識できているのは1と3だけです.2と4の区別はついていません.不思議ですね.順番ではないんです.でも「いちにーさんしーごーろくしちはちきゅーじゅー!」って言えるんです.でもそれとこれとがつながっていない.なぜ2と4を間違えるのか,大人からすれば不思議です.でもよく見れば,確かに2と4は斜めの線があるという点で似ているのです.きっと部分だけで判断しているのでしょうね.写真に示したこの絵を見せて「ケーキは何個?」ときくと「んーーーーーーみっつ!」と言いました.一緒にひとつずつ数えてみると「いち に さん しー ご. ごこ!」と言えるのに何個と尋ねると間違う.それを踏まえて,今度は下の●も数えます.ところが,これには一切興味がない.本人からすれば興味があるのは数字の形なんですね.子どもは大人のように理解しているわけではないのです.子どもは子どもの理屈で理解しようとします.

数字の学習ドリルの写真

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 長男は私に質問するとき「ねぇ,この え なんていうの?」と聞いてきます.絵なんです.数じゃないんです.だから今度は下の5をなぞらせてみます.なぞってみて,と言うとなぞれないんですね.少し驚きました.なぞる,という言葉の意味がわからないのかなと思って一緒に手をもってなぞって見せて,なぞるってこういうことだよと教えてあげました.で,下の破線の部分を,なぞってごらんといってなぞらせてみました.何となくなぞれています.おー,なぞれるじゃないか,やるなぁ.というわけで今後は下のなにもないマスに書かせてみました.結果は写真の通りです.ここまでくるのに30分くらいかかっています.最初見たときびっくりしてしまいました.こどもに数字をなぞらせるというのがどれだけ難しいことかと.こうやってみればたしかに5と6は違うように書いています.たぶん本人からすれば「ほら,今度は下のここにおなじものをかいてごらん」と言われても何をどうすれば良いのかわからなかったのでしょうね.そしてそもそも,形状を正確に写すということも難しいんでしょうね.大人から見れば,1から10まで言えます,5までならひとつずつ数えられます,5も自力で何とか写せました,じゃあなんでここまでできて5が書けないの!?と思ってしまうわけです.つまり,子どもと大人は見ている世界が違うのですね.同じものが違うように見えている.そういうもんなんだという所をスタートラインにしなきゃ,子どもとしては,ともかくやたら大人が意味不明なことをいってくる,というように思ってしまうでしょう.

 これらは程度の差こそあれ,知的に障害のある人にも言えることです.私は小規模作業所に2年ほど通って一緒に作業をしていた時期があります.いろいろな作業所も回ってその違いも見てきました.どこの作業所でも,数を数えられる人はあまりいないんです.なので,製品を10個仕上げるとなると,卵パックを自助具として使うんですね.できた製品をひとつずつケースの穴に入れていく.で全部が埋まったら指導員に渡す.こうして「数える」という行為なしに10個の製品をきちんと仕上げるわけです.ほとんどの作業所で同じような方法が採用されています.このことについて,不思議なことがありました.20カ所程度の作業所をまわって,2カ所だけ「利用者の方全員が数を数えられる」作業所があったんです.気になってその2カ所の特徴を調べてみました.障害種別にも,障害の程度にも,男女比にも,年齢にも,特に他と違う特徴は認められません.最初から数えられる利用者の方々が集まったということもありませんでした.最初は数えられなかった人も,数えられるようになったのだそうです.では何が違うのか? 違うのは,その2カ所は利用者同士の教えあいがものすごく活発なんですね.その話を指導員にすると「え?他の作業所の人はみんな数えられないの!?」と言うんです.特にそのことを意識してやっていたわけではないそうです.調べて見ると,そこでは利用者同士でいろいろ教えあいをする文化があったんです.昼休みになると利用者の方だけで,トランプをするんです.みているとババ抜きをされていました.でも,ルールが柔軟なんです.わからない人がいると,みんなでカードを見て「これとこれがそろってるやんか〜(笑)」などと言いながらゲームが進んでいきます.ともかく楽しむ.楽しむ中で自然と学んでいく.学習の理想型だな,とすごく驚くと同時に感動しました.利用者同士だと,きっと引っかかるポイントが似ているのだと思います,なので,そのポイントを自分の経験として教えることができるのではないかというのが私の仮説です.それがうまく作用したのではないかと考えています.

 とまあ,長くなりましたが,何かを教えて身につけさせたいのなら,教えたいと思う側に覚悟がいるということです.子どもの状態をみて,考えて,お膳立てする.「子どもの学び」という言葉があります.この言葉は子どもが勝手に学ぶような印象を与えますが,それは不十分だと思います.重要なのはその裏側の学ばせるためのお膳立て,なんではないでしょうか.そしてもう一つ重要なことがあります.私は最初の段落以外は「親」と書いていません.これは関わる全ての大人の仕事なのではないかなあと考えているためです.「こういうことに注意して子育てしましょう」みたいに書いてしまうと,結果的に親の責任にばかり注目されてしまうわけですが,やはり子どもというのは社会で支えるべきだろうと綺麗事のように考えています.今回書いた内容というのを,療育に携わる人たちに期待してもいいわけです.
(このコラムはサポートネットワークアミーカウェブサイト掲載用に書いたものを転載しています.)