同情ではなくて共感なんだという文脈でほんの少しおぼえる違和感

最近の福祉の世界では、同情じゃなくて共感が大切なんです、ということを徹底的に教わるわけです。

ひと昔まえは「あいつはかわいそうなやつなんだ」 という感情と道義心が支援のモチベーションになることが実際に多かったわけです。それに対して、そうじゃないだろそれはおかしいだろうという真っ当な批判が起こってきたわけです。人間誰もがいつなんどき事故に遭って障害をもつようになるかわからないじゃないか、そんなときおまえはかわいそうという目線で見られたいのか?そうじゃないだろう?同情じゃない、共感なんだよ、という考え方です。

これについて特に反論はないのですが、ひとつ気になっていることがあります。共感を重視するよう言われてきた世代が、どれだけ共感できているのかということです。これは自戒の念もあり、自身によく問い直すようにしています。

口では共感の大切さを説くわけです。しかし実際に「支援者」の側に立った時、その決意を試されるようなシーンに出会います。どうやっても「問題行動(あえてカッコ付きで表記します)」がなくならない人、OFFの時間にガンガンメールや電話をかけてくる人。ときに「支援者なんだからそういうのも全部含めて私を支援してよ」というプレッシャーを受けることもあります。支援者だからといってそこまで要求されるの?という感覚。親だから、兄弟だから、全て責任を負わなければいけないの?という感覚。

「相手の立場で考えてみましょう、それは問題行動ではないのです、メッセージなんです」というアドバイスは確かにそうなのですが、ストレスを受けてまで自分がそこまで責任を負わないといけないのか?という疑問は残ります。

私はたくさんの「支援者 」をみてきたわけですが、多くの人が上のような感覚を持っていると感じました。でも、それを口にしない。黙々と「問題行動」に対応するわけです。もちろん、どう対応すべきかは周囲と相談します。「あの人はどうしてそういう行動をするのだろう」と徹底的に話し合うわけです。でも、もっと本質的なところは皆がスルーするんですね。本人が感じている本質的な寂しさ、悔しさ、恐れ、焦り、不安。簡単な解決法はない時間のかかる本当の問題について、そこは考えないことにする。時が解決してくれることに期待するわけです。「成長を見守る」 とかそういう綺麗な言葉に置き換えてスルーするわけです。

私がずっと違和感としてもっているのは、その本質的な問題をスルーしたり、本当の自分の気持ちを伝えずにスルーすることが共感を阻害しているのではないかという感覚です。それを支援者の人たちに伝えると、ほとんどの人が「うん、わかる。そうなんだよね。」 というわけです。私がずっと感じているのはこの矛盾です。わかっているのなら、なぜスルーするのか?ということです。共感はそれ自体にも十分意味のあることだとは思いますが、具体的な解決に結びいてはじめて本当の価値が出るのではないかと思います。

こういうことをいうと必ず、仕事の枠を超えてまで支援しなければならないのか、という反論が出てきます。「そうですよ、それが支援者です」などということは私には言えません。仕事の枠を超えてまで仕事をする必要はないでしょう。でも問題は残ります。ここをクリアするのには支援する側される側という線を一回取っ払う必要があると思っています。そのうえで人と人が互いを思いやり、相手の立場になったときに本当に自分はどう感じ、なにを求めるだろうかと考える必要があると思います。もちろん、相手の考える力や感じる力や表現する力を踏まえてのことです。お互い人と人なのだから中間地点を落としどころにするべきだ、というのは良いと思いません。コミュニケーションは能力の高い人が低い人に合わせる必要があると思います(これは立場の上下を意味していません)。そのうえでもし自分が相手だったら、と想像する必要があるでしょう。 その想像にリアリティーをもたせるためには、それこそ日常においてどれだけ関わっているかが関係してきます。一緒にいた時間の長さ、一緒にご飯を食べた回数、一緒に喜んだり悲しんだり怒ったりした回数、そういうものを経て共感に至るのではないかというのが私の考えです。ピアだから共感できるか、親だから共感できるか、現場の経験が長いから共感できるか、というとそれだけでは不完全なのではないかと感じることがあります。互いに負担のない距離で緩やかに長くつながり続けること、これが本質的な問題をスルーせず、具体的な解決(解決というか生活の質の向上)に導くための大切なことではないかと思います。

(このコラムはサポートネットワークアミーカウェブサイト掲載用に書いたものを転載しています.)